いつになく

真顔で。こんな系のエントリをこのブログに上げるのは最初で最後。


「固有名は名詞の束に還元されない」という趣旨の議論がある。
例えば、「わたし」が、「あなた」を大事に思うのはどうしてだろう。やさしいから?じゃあやさしくないときは大事じゃない?素敵な生き方?じゃあ間違ったことしたら見捨てる?かっこいい顔?同じ顔に整形した人がいたら?いつも助けてくれたから?じゃあその分返し終わったらおしまい?
もちろん、やさしさも生き方も顔も行為も、全て大事な要素には違いない。けれども、それら全部を集めても何か足りないはずなのだ。結局「わたし」はこう言う他ない。「『あなた』が『あなた』であるから大事なのだ」と。
もちろんこれはトートロジー(同語反復)だ。しかし動かせない実感を伴った反復だ。我々の世界における他者関係の根底は、この美しいトートロジーによって支えられている。むしろ、合理的なリアルポリティクスこそ幻想に過ぎない。問題はこのトートロジーのキーになるのが「固有名」だということなのだ。その名前が美しかろうが由緒正しかろうが問題ではない。「わたし」が「あなた」の名を呼ぶときに生じる説明のつかない何か、それが問題なのだ。


話をモンテに戻しておこう。大島と星と内山と桜井と永井が、そして2008年にウチに所属した選手と監督が、来年どこかの同じチームでプレーしたとして、あなたはそのチームを真に応援できるか?選手個人は応援できるだろうし、懐かしいプレースタイルに胸を揺さぶられる思いがするかもしれない。しかし、そこには何か、決定的なものが欠け落ちてしまっているはずだ。あなたが「山形ーディオ!」と叫んでいたときにはあった何かが。


もちろん、新たな固有名が与えられたならば、新たなかけがえのなさがそこに紡がれていくことだろう。幾ばくかの傷や亀裂を伴いながら。その傷跡こそをいとおしく思える日も来るかもしれない。
しかし、そんな傷ならわたしたちはもう既に持っている。実数3桁と思しきスタジアムで震えながら負け試合を見つめ、モンテディオという些かサエナイかもしれない名前を呼び続けた記憶は消し去りようがない。「またモンテはよぅ…」という訳知り顔の罵りにも山ほど耐えてきたはずだ。そして、それを絆創膏で覆い隠してしまったなら、いったい「わたし」は「あなた」とどう向き合えばいいというのか。


名前は、単なる記号である。ただし、最もかけがえのないものを指し示す記号である。