共感

フットボールを論じる本はフランスW杯のころから目立ち始めて、その頃はちょっと目を覆いたくなるくらい酷いものが大半だった。多分それは、単に経験的な知識量に人生論をくっつけただけの、「俺はこれだけ見てきたんだから俺のいうことが正しい」ってノリのものがほとんどだったからで、出来るだけその手のものを視野に入れないようにしてきたのだが、あら、最近は相当レヴェルが上がっているんですねえ。

つまり、「ダブル・ヴィジョン」が常態なのだ。これはセルティックスコットランドでおかれてきた一二〇年の歴史を象徴的に表しているとも考えられるが、それ以上にサッカーという祝祭への参加の仕方を見事に具現化している。<…>アイルランド人であることはアイルランドをサポートする重要な資格ではあるが、絶対条件とはならない。言い換えれば、セルティックのシャツを着ていれば、アイルランド人でなくともアイルランドをサポートする資格を得ることになる。そのシャツはアイルランドナショナリズムを直接に喚起するものではないとしても。特定の資格づけであるということに変わりはないが、帰属先と帰属するものとの間には絶対的に固定された関係があるわけではない。「サッカーの詩学政治学」は、こんな簡単な結論にいたるために、これだけの言葉を紡いできたのである。(小笠原博毅「終章 サッカーの詩学政治学に向けて」/有元健・小笠原博毅編『サッカーの詩学政治学人文書院、2005)

サッカーの詩学と政治学

サッカーの詩学と政治学


ふんふん。なるほど。


そういえば、今朝ほど発覚したお隣さんの例の件に関して、他サポのみならず非サッカーファンまで巻き込んでいろいろと、極めてヒステリックに政治的な言説(「だから仙台は…」「だからサッカーは…」等)が練り上げられつつありますが、そんな中で、何人もの仙台サポのみなさんが、自分がまったく責任を取れない事案であったにもかかわらず、「サポーターへの裏切りだ」みたいな自己正当化をせず、「延岡のみなさんウチの選手がごめんなさい」とおっしゃっていたのは、彼我の距離感をキチンと踏まえた誠実な身の処し方だと思いましたことですよ。当事者には当事者にしかなしえない誠実な行動が別にあるというのは勿論ですが。